蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

俯瞰とか全体把握の能力

物事をとらえる能力については、人それぞれに様々なレンジや意味付けの重さを持ち、結果として、ずいぶんと個体差があると思う。またその能力においては、頭脳的な要素と身体的な要素はかなり正確に比例し、片方を認めることでもう片方の能力をかなりはっきりと知ることが出来るのではないか。こんなことを考えたのは自分のバランス感覚のこと、視野のレンジのことを考えていたからで、はっきり言えば、私は全体的な事物の把握能力が乏しいと思う。
まず身体のバランス感覚がない。自分の書いた文字を見ていてもそれを感じる。おそらく、思考のバランスということを考えても同様なのだと思う。バランス感というのは、全体把握の能力の発現なのだと思う。身体のバランスについて言えば、自己の身体とその外側の世界との関係を正確に把握する能力ではないか。バランスがとれている状態とは、事物の関係がトータルで安定するその状態のことで、関係する事物の全体を把握しないことにはこれを手に入れることは難しい。私は全体の把握が苦手だ。細部にはこだわりを持つが、それを全体に持っていくこと、あるいは最初に全体から初めて絞り込んでいく作業を無意識に避けている節がある。そのために、どのような事柄を行うにしろ時間がかかる。この文章も、このあとどこに行くのかまだ分かっていない。
視野のレンジということでも同様だ。構図を考えるのが苦手だ。適正な配置が出来ないのだ。構図に必要なパーツへのこだわりがあっても、そのパーツをどう生かすかがおそらく見えていない。
不思議なことに、あるいは、全く不思議なことではないのかもしれないが、これらの感覚は、頭脳的で身体的活動をともなわない行動と、全く身体的で頭脳を必要としないような反射的な行動のその双方で、同じ個体が同じ傾向を強く持っているように見えることだ。心身が一体であることを、改めて強く意識する。
友人で、中国拳法を習いはじめてから、体が柔らかくなると同時に性格まで柔らかな(様子に)変化した者がいる。硬い身体は硬い心を宿す。逆もまた真だ。
この日記で、読んだ本の記録も付けているが、読み返すとつくづく表現がなっていない。本の紹介をしたいのか、評を与えたいのか、感想文なのか、ただの記録か。自分でもその対象が見えていないのだろう。かつ、書籍の全体像を捉えること、それを言語化して(意識化して)再生産することに失敗している。自分の能力の小ささを感じる。
もっとも、私は文章を書く際に努力をほとんどしていないので、その影響もあるだろう。文を練る努力、思考する努力をしていない。思考といえば、私はこれをどうも出来るだけさけるようにしているようだ。何も考えたくない。覚えたくない。思考や記憶といったことに対して、積極的と行ってもいいくらいに消極的な自分がいるのである。

と、長々と書いてきて、何が言いたいのかといえば、昨日読了したマルドゥック・スクランブルについて、私なりにかっちょええことを書きたいのだが、いかんせん努力しないことには何も出てこないので、何も出てこず、ぐだぐたと言い訳をしているのである。いやほんと、面白いんだから。