蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

某社某会

某得意先の某雑誌某新年会であった。某私が某得意先に同一部署内の某雑誌編集部も交えての新年会である旨言及しなかったことから、昨日になってその編集部に連絡がいっていない旨発覚、申し訳ないことをしたのだ。結局都合が合わず、通達のいっていなかった編集部は参加できなかった。改めて不明を恥じる。
さて18時より某寿司屋にての集まりであった。3時間ほどゆるゆると談話する。煙草はいかん、今後吸ったら弊社に雑誌は出さん、即日で他社に回すぞと冗談交じりのありがたい説教を頂く。なかなかここまでしつこく言って下さる方はいないのでなにか嬉しい。散会後社に戻って仕上げ*1。終電にて帰宅。
帰り道、自宅までの道を歩きながら、ぼんやりといろいろなことを考える。今日は自由などについて。SMからMMの関係に移ろうことに関する論文を読んだ*2のだが、そこから赤瀬川源平の梱包作品の話(クリストはいまだにせっせとひとつのことを続けているけれど、自分はあっという間に宇宙の缶詰まで辿り着いて、果てまで言ってしまったうんぬん)や、サドの『悪徳の栄え』のラスト、娘を暖炉に放り込んで自由を叫ぶシーンの、なにか窮屈な感じ、思うに観念的過ぎる、っていうかその思想性こそがもちろんあの小説の価値なのだろうけど、それって自分は自由を感じない、むしろ森博嗣真賀田四季により自由を感じる、その自由って言うのは突き抜け方の違い、俗世の何かへのアンチテーゼとしての自由でなくて、俗世から乖離しているがゆえに自由、俗世のメタレヴェルにいる自由、そういうことだろうとか、SMがつき詰まった後に残るものと、MMな関係に発展(?)していった際の、その閉じた愉楽と閉塞感、どこにもたどり着かないことを目的地にしたどうどうめぐり、に何かぐったりしたものを感じたり、非常に時代性というか、今の風潮を感じたりするのだった。SMといえば名作『殺し屋1』(小学館、asin:4091515126)がもうどうしようもなく思い出されるわけだが、びっくりしたことにもうほぼ10年前の作品なのだな。ドMの組長がドSの変態1(イチ)がバラした死体を見て、なんのためらいも無く殺している、こういう変態を待っていた、って感動する場面があるのだけど、そういう突き抜けた関係は、MMの世界には無いのだろうな。もっともそんなのどちらも願い下げなのだが。
ところで、僕のカミさんは批評家評論家の類が嫌いである。他のバンドの名曲をカヴァーするなんてのも嫌いらしい。たとえば、No Woman, No Cryなんて名曲は、それこそあちらこちらでカヴァーされまくっているが、こういうのが嫌いらしい。何かが何かを語ること、そのもっともらしさが嫌いらしいのだ。分かるようでいて、それでよく僕と結婚したと僕は感心しつつありがたく感じる。そういうもったいぶった話し方をする自分が確かに僕の中に何%か何十%かいるから。なんで何かについて語りたいのか、たぶん、言葉でもって自分が見ている世界をもう一度形にしてみたいのかもしれないが、逆に自分の言葉で語りきれないのであれば、それはむしろ世界を手に入れられない復讐のようなものなのかもしれないと思ったのだ。世界を作ることのできるものと、できないもの。ただどうしようもなく世界にあこがれて手をのばすことしかできないものは、やがてそれについて語りだすのかもしれない。語りは騙りだから、どこまでも本物ではないのだ。しかしまれに、本物以上に語ることのできる人間もいるのではないか、そう思いたい、というか、それはすでに本物なのだろうから、もはや語る必要すらないのかもしれないが。俺がいいというからいいのだという小林秀雄的な世界はそれかもしれない。いずれにせよ、批判評論することは胡散臭い。だがしかし、人間が手に入れられる世界のかなりの部分は、言葉によるのだから、悲しいかな僕たちはそんな胡散臭い世界の中を泳いでいるのだ。って、もう何を言っているのか自分でもさっぱりわからないので、風呂入って寝よう。

*1:請求の計算

*2:サドッホ、2007年、ペニュルティエーム、思想2007年第2号No.994