蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

春の修羅

修羅とか書くと、シュラシュシュシュ〜と金比羅な気分になるのだが。以下勢いでいろいろバックを固めずに書いているので思い込みや思い込みや思い込みが多く事実関係は保証しません。その辺飛ばして、あぁこの人、鬱なのね、って読んで下されば幸い。
風呂で、『GUNSLINGER GIRL Vol.4』(相田裕アスキー・メディアワークス)を読んでいてちょっと鬱になってしまったので、考えていた事を記しておく、というか、気分的には詩になってしまっていたのだが。詩と言う形式が必要とされる場面もあるのだ。
Vol.4ではトリエラ(という少女)の過去が語られるのだ。作品内世界の舞台はイタリア、時代はほぼ現代。テロ等に対応する政府の秘密裏の暗殺組織が存在しており、“義体”と称される少女たちが使役されている。少女たちは国内外から集められた身体障害者や負傷者等、身内がなかったり、見捨てられた重度の障害を持つ者たち。その身柄を引き受ける代わり、義体と呼ばれる人工の身体を与え、薬で洗脳(“条件付け”と呼ばれる)を行い、政府に楯突く者たちを組織的に武力制圧する。そんな世界。少女たち一人一人にはその監督役が付き、ツーマンセルで行動する。そこには薬の作用もあり疑似恋愛感情が(少女側からは)発生する。幾人もの少女たちの生活と死を作品は描いていくのだが、トリエラは中でもスナッフ・ムーヴィーの被害者という過去を持つ。薬による洗脳過程で過去は記憶から消し去られているのだが、潜在意識としては記憶しており、夢の中で泣くのだ。
と、そんな話を読みながら、娘を持つ自分の事を考え、その上で、加害者の事を考えた際、自分であればどうするか、迷いなく、チャンスあれば、加害者を殺害するだろうと思った。そして、そのある意味躊躇無い断定の仕方を、非常にキリスト教的だと思ったのだ。もちろん、キリスト教では殺人を禁じている。だが同時に、悔いる事の無い明らかな悪を前にして、それを断罪してきたのもまたキリスト教徒だ。罪や悪の所在を「神」という絶対の善を基準に裁く。悔いるものは天へ召されるが、悔いぬものは天へ受け入れられない。永劫の罪に、煉獄やら、地獄やらを彷徨うのだ。力ない幼児を相手に、己の欲望を行使し、さらにはそれを持って糊口を凌ぐなど、言語道断、無窮の闇へ葬ってもよい、瞬時に、そういう結論に達して、その迷い無さを、キリスト教的と感じてしまった。
しかし、そうした罪人もまた、高みから見れば、自ずから避ける事のできない過去や性質、社会に因って形成されている。ある意味逃れようも無く悪のうちへ堕ちてしまう。その辺りの葛藤は、多少方向性は違うが『彼方より』(篠田真由美/講談社*1)に詳しい。より広い目で見れば、そうした罪人こそ、なぜ救われないのか、人の長い歴史の中でおそらく少なからぬ人たちが葛藤を繰り返してきたに違いない。それでも、被害者としては、加害者へは容赦のない鉄槌を下したい。その悪の濃さに対して絶対的な暴力でもって報い、正義としたい。これは人の業か。それとも、キリスト教、あるいはユダヤ、イスラムといった中東原産の宗教の特性なのか。
仏教では、というか小乗仏教では、絶対的な存在が登場しない。人は苦しみの業の輪をひたすらに生き、ただそれを解脱出来たものが苦しみの輪から逃れていくだけだ。故に、愛も憎しみも苦しみであると、仏教は訴える。子供を失い、悲しみと憎しみに暮れる被害者はまさにその苦の中心にあり、苦に溺して加害者に死を送ればそれもまた苦の輪を紡ぐ事になり、すなわち次の苦の循環へと繋がっていくだけであろう。キリスト教的世界で善悪を二極化する事で、神の視点を導入し、復讐を私的なレベルから理へと引き上げて断罪する。仏教徒にはその視点は無かろう、だが、苦しみの連鎖という、輪廻という構造は、輪廻が無条件に繰り返される世界という概念を導入する事で(世界構造に仮託する事で)、誰も責任を取らないままに罪を循環させ*2、罪人を解脱へは導き入れない、その意味では、十分にキリスト教世界の救いの構造と、ただ中心に理性的な存在をおくか世界という理をおくかという違いだけで、同一なように思った。
幼児らを、暴力と欲望のただ中に据え消費して殺害する、スナッフ・ムーヴィーやその愛好者について、神という絶対を導入して断罪するも、また、苦しみの連鎖の断続という構造を導入してそれを哀れむも、つまりは、変わらぬ行為ではないか。そこに救いは無いのだ。ただ、被害者は、殺意と救いの中間に鬼となるか、修羅となるか、その両方を行き来するか。達観し、加害者すらも許しまたは哀れみ、憎しみと殺意を哀しみに転化してして生きることができるとすれば、それは尊敬に値するが人としてあまりにも遠すぎる。かといって、復讐の心に支配され、鬼と化せば、それもまた次の憎しみの連鎖を生み出すにすぎない。例えば今のユダヤ人たちのように。その中間、鬼の心を知って仏を目指す、鬼たる自分を哀しみ鬼に堕ちない、そのあわい、修羅の道こそが、最後に残された人の道であるようにも思う。救いは、対象との関係に生まれるものではないのだ。それは、己と神、あるいは世界との間に、密かに交わされる小さな契約なのであり、神や世界に仮託して行われる復讐では、決して得られるものではないように思う。
人は神になれない。故に罪を裁けない。だが、世界に仮託しても業を深くするだけで苦しみから逃れられない。あるのはただ、修羅の道のみ...
と、とりとめは全くないのだ。とりあえず、少し鬱になってみた次第。作品としてひかれる要素は強いのだが、同時に、設定に悪意を感じすぎて非常に困ってしまう、そんな『GUNSLINGER GIRL』なのである。

GUNSLINGER GIRL 1 (電撃コミックス)

GUNSLINGER GIRL 1 (電撃コミックス)


彼方より

彼方より

*1:残念だが、既に絶版か。

*2:キリスト教世界では、究極の責任者は善であり創造主である神そのものであると考えられるし、罪を嘆き救いの手を差し伸べ、また同時に悔いを持たないものを救わ(え)ない、それは神そのものである、と僕は考えている。さらにいえば、聖書がいうような、罪人を救わない神、というのは、人を悔い改めさせようと人が設定した神の性質なのではないかとかねてより疑っている。最も罪の重い者、例えば、ヒトラーのようなそれを救わ(え)ない神というのは、僕には想像しがたい。ならば、何のための神か。