蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

めも

池田信夫氏のブログより。2ちゃんねるの住民をステレオタイプな古い日本人の姿とされたのには驚いた。その視点は全くなかった。しかし言われてみると、それだけだとは思わないけれど、そういう側面も確かにあるかもしれないと思ってしまった。この社会と若者に蔓延したあきらめの気配については、かなりどうにもならないものを感じる。戦争をしろとは言わないが、なにか大きな力で根底から混ぜっ返さないと打開出来ないほどの停滞感がある。
とはいえ、この停滞感って、本当に停滞なのかな? この平和も、偽りなのだろうか。個人的には全共闘世代の「闘い」が終わった後、長い長い「祭の後」を僕らは生かされてきたような気がする。近頃の若者は、と言う主体が、それを最も嫌がって闘ったはずの世代になっており、かつて何かと闘った事を免罪符に、「闘いの後」の社会を築いてきてしまった。また、第二次ベビーブーム以降の世代もまた、その「闘いの後」の世界をそのままに歩んできてしまったのではないか。年金にしろ、社会の無気力化にしろ、今のアラフォー以降の世代は大きなツケを払っているという感覚が僕にはある。IT周りをうろうろしていると、世界はこんなに面白いのに、なんでこれほど社会に元気が無いのか不思議でならない。若い世代は、もっと好きな事を好きなだけやればいいと思う。好きな事が見つからないとしたら、それこそが、上の世代の功罪だろう。夢を見る力を育てる事こそが、親に求められることだ。自分たちだけが夢に生き、夢に破れ、その後だらだらとバブルを作り、崩壊させてまだ余力を持って生きている...
って、やばいな。だんだん戦争をした方がマシ、って文章になりつつあるぞw ここでオシマイ。

残念ながら、若者にはその力はない。かつてのマルクス主義のような、彼らを駆り立てる「大きな物語」が失われてしまったからだ。こうして実社会の共同体から排除された若者は、仮想空間で共同体を築く。「2ちゃんねる」に見られるのは、似たもの同士で集まり、異質なものを「村八分」で排除することに快楽を見出す、ほとんどステレオタイプなまでに古い日本人の姿だ。世界のどこにも見られない、この巨大な負のエネルギーの中には、実社会で闘うことをあきらめた若者の姿がみえる。