蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

自殺

「自殺が予告された今日、万が一の事態をなんとか避けたいと」というアナウンサーの声に、消極的な「避けたい」という気持ちも感じちゃうあたりに、なにか寂しいものが。自殺を止めることって、する方が本気である場合、実に難しく思いますね。自殺の一つの目的は、私を見て! という究極の叫びでしょうから、ちゃんと見ることができるか、目の前のことに向き合えるかを、叫ばれている方も試されているわけで、向き合う方にもそれ相応の覚悟が問われ、生半なことじゃありません。いまの学校にその余裕があるのか? さらに、今の社会にその余裕があるのかって、思っちゃうなぁ。
正直、自分だって、平日は朝6時から夜中まで会社で家におらず、家庭のことは見ることができていません。すでに、家庭の人でない。家族の同心円の、最遠部にいるわけで。家族を中心とした社会ができていない、同様に家族を中心とした同心円を持つ社会を持てていないとつくづく思いますね。もちろん、それで解決されることではありませんが。
しかし、自殺予告があったから必死になるって、いい機会ではあるけど、付け焼き刃っていうか、普段がおろそかなんじゃないのって思うぞ。いじめがあっても、学校という社会からはなれることを許さないシステムもむかつくし、いじめを許すシステムもむかつくし、自分が今いる位置もそうしてみればむかつくわけで。ああ、俺も、子供の話ってちゃんと聞いていないよなぁ。聞ける時間も作ってないなぁ。鬱。
社会の対策、っていうけど、社会ってまず自分が中心の円であるわけで。そう考えないと、他人事で終わるなこの問題も。今だけの話になっちゃって、ああ、つまるところ、生徒に死なれると学校や大人は「迷惑」なんだなって話になっちゃうぜ。