蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

最近の父上

先週金曜日に無事退院してきて以来あっていないが、元気な様子。歩いて隣駅の書店まで行ってリハビリの本を買ってきたとか、なかなかにやる気に満ちたご様子で。
退院したときは、今までのような生活は続けられない、この先どうしようかと悩んでおられたが、その辺が解消したとは思わないから、今後義母と同居を続けるのか、それとも妹の所に行くか、はたまた第三の道を模索するのか、とにかくなんらかの新しい生活形態をとられるのだろう。義母の家はそれほど広くなく、父のスペースも寝室以外にないから、家で仕事をしてきた頭脳人にはかなりストレスだろう。自分のスペースは拡張された頭のようなものだから、ゆったりとくつろげるスペースがなければ窒息状態になることは目に見えている。疲れたら海を散歩できた鎌倉に比べ、義母の家がある代々木は周辺状況も良くはない。その辺を義母が理解でき対処で
きるかというところが大きいだろう。仕事や義母自身の家庭環境もあって今のような形になっているわけであるが、父というよりは義母がその生活の仕方を問われているということでもあり。心配なのは現在の形が崩せず長引いた場合で、ストレスから父の症状が悪化するといったケース。まぁ父自身、今のままの生活が続くなら妹の所に行こうかと考えているといっていたから、それはそれでいいのかもしれないが。いずれにせよまだ荒れる要素は多く頭が痛い。せっかく病気が治っても、その背後にあるものは姿を明らかにしただけで解決されていない。むしろこれからが大変にも思う。
何でこう僕の周りには家族での生活がうまくいかない人間が多いのだろうなぁ。しかし、もともとそれは一般的な問題として自明なものなのかもしれないなぁ。制度や通念といった社会からの外部圧力でこれまでは多少苦しくても家/家族が保たれていただけなのかもしれず、外圧が緩んだところで本来家/家族が抱えていた構造的なもろさが露呈しているだけかもしれないなぁ。だとすれば、なんて寂しい。でも、なんて自由な。結局は孤独な存在だよなぁ。群れ生きる存在であるにも関わらず強い自我を持つのって生物としていささか不安定なような。いや、不安定だからこそのルールが必要で、自我の外部を必要としているのか。我思う、故に我あり。我思わ
れる、故に我あり、ってね、デカルトの自省だけじゃ人は存在できないんじゃないかな。お、量子物理チック。観察されないと自己も同定されないのか? でも認識ってそもそも「○○に対する△△」ってな具合にその比較対照というか基軸を必要とするわけで、その時点でもう相対物を持たない自己なんてものの想像も難しく、それはもう神みたいなもので、なんのことはない「人という字は……」って、ああ、金八で〆になっちまった!