蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

拡大再生産

子供の発想って凄い。東浩紀の日記より:

さなえ「車に轢かれると死んじゃうこともあるんだよ。気をつけなさい、しおちゃんがいなくなるとママ悲しいから」

汐音「じゃあ、もうひとり産めばいいじゃない」

さなえ「もうひとりって、だれを」

汐音「しおちゃん」

おかぁさんの複製能力には限界があるんだよ。いや、そういう話ではなくw
なまじ自己意識なんて持ってしまうと、こういう発想は出来なくなる。しかし逆に、子供の頃はこの程度に自己と他者の境界が曖昧なんだな。そう考えてみるとなかなか、というよりはかなり凄いことに思えてくる。
大人になってしまって、あれこれ考えた人たち、例えばマルティン・ブーバー(『我と汝』)や、西田幾多郎(「絶対矛盾的自己同一」*1)などという人たちは、自己と世界(あるいは他者)がその境界を揺るがすことでコミュニケートしていく様と、同時に、揺るがされる境界が無ければそもそもコミュニケート不可能というようなことを、かなり真剣に悩んで考えている訳*2だが、齢を重ねていない、言葉もそこそこにしか使えない段階の子供はまだ世界と意識が分化していないのだなぁ。言葉を身につける過程で、世界は言葉によってどんどんと分解/分化されて、絶対的なものから相対的なものへと変わっていってしまうわけで、それは喪失なのか、獲得なのか、少なくとも「孤独」という意識は言語から発生しているように僕は思う。私である、ということはそれ以外のものでない、ということだから、悲しいかな当然といえば当然なのだが。そういえば、『攻殻機動隊』でも、タチコマが戦車とリンクして思わず自己を失いそうになる場面があったが、子供の意識はああいうものなのかもしれない。
言葉でしか他者と分かり合えない、話し合うことでしか分かり合えない、ということを時々聞くが、他者を生み出した大本が言葉であると考えると、それはどこまでも皮肉で不可能なことに思えてくる。実際は、言葉で深みを目指せば目指すほど、他者は遠のいていくのではないか? あるいは、その深みの果てに、言葉の壁が敗れてついに理解へと至る、彼我一体の境地があるのだろうか。

*1:「絶対矛盾的自己同一」青空文庫で読めます>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html:title]

*2:僕がそう思っているだけで、学術界の評価は調べていないし、故に反映されてない意見なのであしからず。