蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

自分で忘れてしまう前にメモーー絶対とか宗教とか

※以下暴走してます。
数学で0を扱うと、途端に怪しくなるように、そして、哲学が問題にしてきたように、「絶対」という概念は非常に危険なものだと思います。
この「世の中」(仏教で言えば現世)は、私は相対的な場であると感じています。そこに絶対を持ち込んだ時点で、相容れぬ相対と絶対という対立が起きるのではないか__。
私はカトリックで、ある程度(<いいのか)神を信じていますが、それを世界に押し付けることはしたくありません。現世では、反対項でなく、絶対でなく、共通項をむしろ探して、そこを基盤として生きていくべきです。絶対に関する信念は、個人の信念として大切にしながらも、他者との関係においてそれは極力持ち出すべきではありません。もちろん相容れないこともあると思いますが、そこに立てばもう何も見えない。見えないなら、アトス山の修験者のように、現世と縁を絶って籠るしかない。いや、籠らなくてはいけない。所詮「絶対」は他者とは相容れないのですから。
宗教への批判も、反宗教という意味で、心情的な立場、状態は宗教に過度に依存する者に近いものを感じます。お互いを鏡に映しているみたいな。宗教と言うキーワードを持ち出すと、確かに理解が楽です。たとえば、ムスリム対非イスラム世界、という図式は、最近広く用いられているけど、人間対非人間、と言う図式と、何か違いがありますか? あまりにもくくり方が大きすぎて、含まれる属性が多すぎます。世界の総人口の殆どが何らかの宗教をもっていると考えれば、そのバカバカしさが分かると思います。
例えば、イスラム教は気高い宗教ですし(いや、気高くない宗教ってどんなんだってツッコミは置いておいて)。そして非常に寛容な規則をもっています。何も知らない者が、宗教に狂った奴は、という言い方や見方で納得してしまうことは、結局本質を逃すことになるのではないでしょうか? 確かに宗教も一因となっているでしょう。今日注目されるテロの実行者にはイスラム教徒が多いですが、彼らがイスラム教を心の糧に生きている以上、そこに宗教色が満ちていることは当然です。アイルランドのテロリストたちが、カトリック色を強く出すのも、また当然です。しかし、宗教が原因ならば、イスラム教徒は、カトリックは、みなテロに走るのでしょうか? 暴力に走るのでしょうか? その背後にある貧困や圧倒的な支配者/被支配者の関係等はどうなってしまうのでしょう?
簡単な図式に逃げて理解したつもりになることは、私自身よくあります。例えば私は、宗教よりも経済的な力による暴力という図式を採用しています。これもまた簡単な図式かも知れません。また上の意見も、かなりヒステリックなものです。まだほとんど推敲していませんし、上の意見自体が、何らかの類型にはまっているように思っています。
しかし、やはり、単純に宗教のせいにして理解することはしたくないのです。集団を区別する属性として、それは例えば人種に近いと思うのです。くくりが大きすぎます。そういうところから、いわれのない差別が生まれる気がします。
と、ここまで書いて、宗教と、それに心酔する人たち、という分け方を考慮しなくてはいけないことに気がつきました。宗教を批判することと、宗教によって自分の問題を正当化して活動する人たちを批判すること、これらを明確に分けないといけない。そういう意味で、私のここまでの議論は全然不足していました。サッカーと、フーリガンを一緒にしてはいけないようなものですか。違うかな? 比喩がおかしい? でも、フーリガンがあまりに有名になると、サッカーって、という話も出てくると思うのです。それが怖い。みるべきところは、サッカーにそこまで依存する背景なのに。
この項、考え続けます。またまとまったら、あるいは自分の中で続きがあふれちゃったら、また続きを書きたいと思います。(<言い逃げか!)