蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

なにやら皮肉な朝、というかこのギャップ

ストーンズの "STRIPPED" を聞きながらスターバックスで買ってきたニューギニアの豆(Peaberry、期間限定品)を淹れる。結構おいしい。何でも奇形の豆で、枝の先のほうにたまにできるのだという。コーヒー豆は宝貝のような形をしているが、真中のスリットを境に片側だけが育つという不思議な生育をする故の稀少豆だそうだ。通常の豆より何割か小さい姿がかわいい。豆は割と深く炒ってある様子。黒光りしている。
とまぁ、ここまではオサレな朝である。カミさんを送りに行き、スタバの豆を買って、ストーンズのアコースティックアルバムを聞く。子供をしかりながら雑巾掛けさせる。で、新聞を取ってきて一面、ウズベキスタンの暴動の記事。反政府暴動に対する徹底した武力弾圧。もとソヴィエト圏はこういう事件に容赦がない。ためらいなく市民に対して引き金を引く。ソヴィエト時代からの体質なのだろうか? それとも、あのあたりの国民性? そんなものがあるとして。そういう記事を読みながらコーヒーを飲んで、音楽を聴いたりしていると、なんというか、平和にしていることが妙に後ろめたい。そこで終われば偽善なのだろうが、多分偽善になるのだろう。
積極的に世界の平和の為とか、世界の幸せの為とか、そういう正義感倫理観にあふれた義勇行為が信じられない。この感覚、単純な正義や倫理への信頼の喪失は多分60-70年代の学生運動を端に始まったのだと思う。戦後かろうじて残っていた正義感や倫理観を、あそこで使い果たしたというか、多分汚れたので捨ててしまったのではないか。世界と自分たちがつながっている感覚は、おそらくそこで放棄された、というよりも多分諦めちゃったのだ。と、なんとなく思うのだ。団塊の世代が食いつぶしたものは大きい。それを受けた団塊ジュニア、つまり僕だが、は、この後ろめたさを押し付けられた感覚だ。
というのが、表向きの自分に対するいいわけだ。批判、非難は楽だよな。隣で飢えている人がいれば多分助けるだろう。少し遠く、かなり遠くになるとどうにも感覚が鈍る。でも、遠くの大きな不幸に気をとられて近くの不幸を助けないのはまさに偽善だろう。自分の周囲をよく出来ないのに、遠くに何か出来るわけがない。というわけでとりあえずの結論はまず自分の生活をしっかりさせ、自分の周囲に自分が気持ち悪くない環境を作るよう、少なくとも何かの行動を惜しまないこと。