蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

そうそう、こういうことが言いたかった

某誌に寄稿したが、ネットの発達でマスコミの意味が問い返されることとなるだろう、と考えていた。一般市民がブロードキャストのシステム(ケータイから掲示板への投稿、ビデオからYouTubeへの投稿、Ustreamを使っての生中継etc.)を手に入れた先に問い返されるのは、間違いなくマスコミの再評価と、マスコミを必要としてきた人たちの好奇心の再評価である。マスコミが掲げてきた報道の自由、その背後にある真実は共有されるべきものという正義感、そこに潜んでいる見ることの愉楽、そうしたことが根底から問われるようになるだろうと考えていた。

マスコミは野次馬根性を隠すための共同幻想装置だ

 実はこの野次馬根性というのは、それらの記事や映像を受け取る視聴者・読者の側とダイレクトにつながっている。大半の人は、野次馬根性でしか事件報道を見ていない。事件現場の映像にゾクゾクするような興奮を感じない人がいるだろうか? 被害者や遺族に対する詠嘆、社会に対する怒りなどの理性的な思考が生まれてくるのはしばらく後の話で、最初の事件発生直後には、報道するマスメディアとその情報を受け取る視聴者を巻き込んだ、興奮の渦しか存在していない。