蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

昨日のエントリの補足

なんだか☆を頂いてしまった昨日のガンスリネタのエントリですが、酔っぱらっていたので風呂で考えたことのいくらかが落ちていました。ちょっと補足を。
スナッフ・ムーヴィや幼児をターゲットにした暴行と、先日までガザ地区でイスラエルが行っていた白リン弾による攻撃などの無差別な暴力の差異を考えていたのです。果たして、どちらの方が罪が重いのだろうと。結局僕には分かりませんでした。個人の嗜好で、あるいは集団の嗜好を見込んだ職業的な行為として、幼児を暴行、殺害する行為と、大義の為に一括して地域ごと、老若男女を一切無視して犯し尽くす行為と、どちらがより思い罪なのか。許されがたいことなのか。分かりませんでした。
胸の悪くなる話ですが、個人の嗜好によって殺された幼児たちのその死への過程と、大義の下に燃やされてしまった幼児たちのその死への過程を想像してみて、徹底した悪意とその不条理さに犯し尽くされる絶望感に激しくむかつきを覚え、天災のように空から降りて来た炎に焼き尽くされる絶望感に頭が熱くなり、そう、比較してもそこには答えも無いし、そもそも死を定量化できるかと言えば、そんなことは出来ない、ということに気が付いたのでした。
後はそう、残されたものが、鬼となるか修羅となるか、仏になるか神になるか、人として究極の所で、善悪は彼岸にあり、此岸にはただ善を渇望する終わりの無い葛藤だけが残るのだろうという、苦い結論に達しました。苦しみは、それを生きるしかない。悲しみも、それを生きるしかない。そうそう、修羅の他に、地蔵がいましたね。あるいは、人として来たキリストが。苦しみや悲しみを共に生きる、その共時性のその中で、奇跡のように救いを見るチャンスがあるのかもしれません。そのチャンスがあるかもしれない、という希望だけが、救いであるようにも、思いました。
結論なんて、結局は出ない。それとも、出すべきでないのかもしれません。