蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

クロワッサンがいってしまった

まるで村上春樹が描くいるかホテルのエレベータのように、僕はクロワッサンが回すくるまの音を聞くことが出来る。せわしなく箱の中を駆け回っては、再びくるまにおさまり、ものすごいスピードでそれをまわす、からからからからという音を、今も、背後に聞くことが出来る。
クロワッサンは、今日、その短い生涯の幕を閉じてしまった。夕方、子供たちが、何か普段と様子が違うと気づき、知り合いの車に乗せていただいて長谷の動物病院へ連れて行ったが、その途中でもう、動かなくなってしまったという。遺伝的に長生きの出来ない体だったのか、病院の先生いわく、通常の成体のジャンガリアン・ハムスターに比べて体重が半分程度しかなかったという。あるいは、体の内側のどこかに、病気や不具合を抱えていたのかもしれない。僕たちにはそれは見抜けなかった。
妻は、病院でクロワッサンを診てもらっているうちに、また気絶してしまったのだそうだ。下の娘が指を切ったとき以来だが、大きなショックがあるとそうして遮断してしまうようだ。娘たちのほうが、泣きたかったろうに、先に私が倒れちゃったから泣くに泣けず、病院ではしっかりしていたわ、と、夜、妻が寂しそうに笑って話してくれた。
僕が職場でクロワッサンが死んでしまったと、妻から電話を受けたとき、涙ながらに報告してくれた妻の後に、長女に代わったのだが、取り乱していて何を言っているのか分からなかった。長女がそういう泣き方をしたのは、本当に久しぶりで、その実も世もないという悲しがりように、強く胸を打たれた。クロワッサンが死んでしまったことは寂しいが、それよりも、その長女の悲しみ方のほうが、より強く響いた。
仕事を少し早く切り上げて、東京駅まで歩いた。途中で無性に『羊をめぐる冒険』が読みたくなり、丸善によって文庫判を買い、読みながら帰った。東京駅地下のキオスクでアルコールを買い、そのままコンコースで飲んだが、まるでアルコールという感じもせずに飲み干してしまい、文庫を読みながら電車を待っていた。このところの疲れが、ぐっと出てきたようで、今日一日風邪っぽかったのだが、案の定、電車が走り出してすぐに眠ってしまった。途中、隣の人に強く倒れ掛かったようにおもうが、よく覚えていない。気がついたらば東逗子の駅だった。二駅も乗り過ごしてしまっていた。
そのまま電車を降りると、ホームの庇のむこうで雨が降っており、上り線のプラットホームにはほとんど人もおらず、まるでモノクロームの写真のようにつややかで静まり返った光景があった。東京で飲んだアルコールのせいか、まだ眠りから頭の奥が覚めていないのか、ぼんやりとした意識のまま、冷たいベンチに座り、上り列車を待った。
鎌倉駅までリカバリしたが、目の前を大塔宮行きのバスが通り過ぎていく。どこかで全てのタイミングが、少しずつずれていて、なにもかもがぴたりと合うことがなく、今日はそんな日であるように思った。すこしだけ降っている弱い雨の中を、歩いて帰った。
歩きながら、泣いていた娘と、妻と、クロワッサンのことを考えていた。天国のことや、アニミズムのことも考えた。じぶんのことを、最後はずっと考えていた。そういうじぶんが、いつもながら、悲しかったが、しかしじぶんは、そういうじぶんなのだ。つまるところ、視点がじぶんの内側に籠っているのだろう。じぶんは、妻や娘たちのように、クロワッサンを愛していただろうか? あるいは、誰かや何かを、愛しているだろうか? 考えるだに、そういう対象はかなり少なく思えた。クロワッサンも、いなくなってしまったことが寂しいのであって、死んでしまったことが悲しいのとは、少し違うように思えた。じっさい、生きていても死んでいても、もう二度と会わない相手は、実はたくさんいるのだ。そこに大きな違いはないように感じる。それよりも、昨日までそこでくるまを回していた、その存在がないことが寂しく感じる。しかし、涙が止まらないということはないし、自分の中の悲しみが直接にクロワッサンに向くことが抑制されているように思う。あるいは、そんな気持ちがないのではないかと、自分にとっては、その程度の存在であったのかと、妻や娘たちを見ていると、自分が寂しく感じられた。いつも、自分についてはそう思う。情が薄い、というよりは、たぶん、そこまで関わることを無意識に避けているように思う。ときどき、絶望というほど強くはないが、なにかうすら寒いような気分になることがある。
天国についても、考えていた。キリスト教では、動物の魂の救済については、確か述べていない、というか、人間の魂の救済が述べられており、自然は人間の周りの環境として管理対象として語られたように思う。しかしはたして、クロワッサンの魂に会えないのであれば、そんな天国は、意味があるのだろうか。天国がもし可能であれば、そこには自分が愛したもの、大切に思ったものが、全てあって欲しい。そうしたもろもろが、もはや争いや諍いもなく、それでいて、人間を超えて完全な形で、そこなわれることなく人間であって、そうした矛盾が矛盾のままにしかも解消された、現世ではありえない調和を持った、そうした世界であって欲しい。もしも、クロワッサンや、妻が昔飼っていた犬や、そうしたものたちと再び会うことが出来ないというならば、天国のなんと寂しいことかと、思った。
そしてまた、キリスト教徒としてどうかと思うが、クロワッサンを土の中に葬ることで、やがて、その魂が帰ってくるような、生まれ変わりというものがあるような、そんな気がしてならない。死んでしまった向こうが、いつか実現されるという復活の日、その日まで、帰ることのない昇華の道であるならば、むしろ命が巡り巡る、輪廻の世界というのは、なかなかに実感しやすい。たぶん、日本という環境が、強く作用しているのだろう。
家に着くと、以外なことに、妻がまだ起きており、涙ぐんだまま、迎えてくれた。クロワッサンは、病院から帰ってきた後、娘たちが薄い樹の板で出来たきれいな箱に、柔らかにおさめてあげており、まるで、いつも巣箱の隅で丸まって寝ていたときのような顔をしていて、ちっとも死んでしまった風でない。でも、そっとなでてみると、体はこわばっており、あの、生きていたときの、まるで骨がないような柔らかな様子はまったくなく、小さな頭蓋と、その上のすべやかな毛皮がなにか優しく、そっと閉じたまぶたが切ない様子で、それでも、それでも夜中になると、ひょっとして起きだして、またいつものように楽しげな使命感を感じさせる一途さで、からからからからと、くるまを回しているのではないかと、そう、思われた。
明日、朝、会社に行く前に、庭に穴を掘り、みなで埋葬するつもりだ。本当に短い生涯だったが、その間、我が家のみなを和ませる、優しい家族だった。