蝸牛日記(Pseudomenos版)

嘘ばかりの日記です

世界遺産/ボスニア・ヘルツェゴビナ、モスタル−−Old Bridge Area of the Old City of Mostar

TBSの番組、世界遺産視聴。録画し損なったのが悔やまれる。いつもながら抜群にうまい光の扱い。戦争の傷跡までもが静謐に描かれる。重く沈む光、ヒロシマ原爆ドームのようなモニュメント性を感じさせる。そしてテーマである橋。この橋の美しいこと。すばらしい建築である。
ユーゴスラビアの都市と、橋についての関係については米澤穂信の『さよなら妖精』(ISBN:4488451039)にて知った。その橋が、無惨にも落とされる映像は、戦争の象徴として、あまりにわかりやすく、痛ましい。その橋を架け直す、崩れた橋の石を河から拾い集めてまでというところに欧州の文化の何かを見たように思う。大文字の「建築」を考えさせられる。
また、それは単純な復旧作業でなく、橋が象徴する意味を、わずかながらの希望を、復旧しようとする行為にも見えた。橋の歴史は、街の歴史でもある。異文化の交わる地域での、象徴的な意味を持った存在として、街を、人をつなげてきた。橋を落とすことはその意味を断ち切ること、橋を架けることは、その意味を再び見いだすこと。
子供の頃は、戦争について今ほどに恐ろしさを覚えていなかった。それは遠い時代や、遠い場所の、できごとだった。しかし、歳を経るごとに戦争が恐ろしくて仕方がなくなる。その恐怖感は、遠い何かとの、Unknownとの争いでなく、すぐ隣の人々との、ある日突然にやってくる激しい諍いにあるように思う。それまで隣人として普通に接していた人たちを、ある日を境に敵性のものと見なすようになり、弾圧し、弾圧される、その不気味さ。恐ろしさ。人間への信頼感への、根源的な不信。虚しさ。恐ろしさ。
橋はまさにシンボルだ。戦争が終わって、どちらかの民族がその場から消滅するわけではない。ある時まで普通の隣人であった彼らは、ある時から敵となり、戦いが済んだ今も、少なからぬ憎しみを互いに抱えたまま、隣り合って存在している。普通の隣人が、敵となることを知ってしまった不安。敵であったことへの怒り。断絶へ逃げ出したくなることもあるだろう。いまや交わることすら困難と思える隣人たちの、橋は、不器用なリンクだ。いつでも自分たちで断ち切ることのできるそれを、それでも、架け直そうとする、その意思が、関係への意思となる。その意思が、なにかの救いに見える。橋は再び河に架かり、見えない何かを結びつけようとしている。一度落としたものでも、再び架け直すことができることを教えてくれる。失うことへの恐怖は、その背後に、再び架け直せるという希望も併せ持っている。皮肉ではあるが。
そう、皮肉ではあるが、それでもまた手をのばす、その意思に、心動かされるものがある。
(この項、またしてもまとまらず。)